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異説 ビヨ版・忠臣蔵

 時は元禄。幕府の儀典指導という立場の高家筆頭であり、足利家中の名族筆頭たる吉良家は、幕府中でも重鎮たる家系。
 今日も今日とて、たわむれてくる孫と縁側で遊ぶ好々爺といった風情の、当主上野介義央。つつがなく日々の仕事をこなし、あとは隠居する時機を考えるのみ。安泰であった。

 だが、そんなのんびりとした気持ちを邪魔する出来事を思い返すに、義央の気分は幾分優れなくなる。東山天皇と霊元上皇の勅旨が江戸へ下向すると知らされたのは、いつのことだったか。
 朝廷から江戸へ使者が下向するとなれば、それなりの饗応といったものが礼儀として要求される。
  名ばかりの朝廷とはいえ、征夷大将軍という武士を束ねる役職の任命権は、いかな武士が主役の世の中なれど朝廷にある。形骸化した天皇制ながらも、朝廷からの使者を無視はできない。

 「ふう。よりによって浅野なのか・・・」

 朝廷使者の饗応は、吉良家が直接行うわけではない。大名の中から饗応役が指名され、それを吉良家が指導するといった形をとる。
 義央が播州赤穂家の浅野に表情を曇らせたのには理由があった。吉良家と播州浅野家は、けっして仲のいい間柄ではなかった。いや、むしろ悪い関係だったのである。

 播州赤穂の浅野家は、元々常陸国の笠間藩が所領であった。その前は真壁藩。いずれも現在の茨城県における内陸地である。
 米作で藩の収入を得る時代はとっくに終わっていた。どの藩もなにがしかの産業を興しており、それらは藩の重要な現金収入になっていた。藩の表高は水田の広さから導き出される石高だが、現実は稲作よりも副収入が大きな藩の財政になっていたのである。

 さて、常陸の内陸地から播磨の赤穂へ国替えになった浅野家は、今までの内陸から海沿いの関西へ移封になり、藩の経営方針がまったく見えない状態に置かれた。
 遠隔地へ国替えになった場合、たいていは下っ端の家臣を解雇し、家財道具をすべて売り払って新任地へは身軽になって移動するものだが、浅野家は家臣を解雇するのが忍びないとして、すべての家臣を引き連れて赤穂へ移ったのが仇になった。
 大量の旧家臣を食わせるための産業がなく、移封直後から浅野家はいきなり財政が窮乏したのである。

 そこで思いついたのが、海沿いの藩であることを生かした、海水から作る塩の事業であった。しかし浅野家には製塩に関する知識を持った指導者がいない。そこで泣きついたのが、よりによって我が吉良家とは。

 三河吉良を所領とする吉良家は、海沿いであることもあって古くから製塩に精通した藩である。
 当時の塩は調味料としての役目はもとより、焼き塩は歯磨き粉として使われていた。吉良の塩は高品質であったため、関東圏では一流品としての定番であるほどだった。
 その吉良に浅野家は製塩方法を教えてほしいと泣きついてきたのであった。もちろん、断る理由などなにもない。さぞやお困りでしょうと、懇切丁寧に製塩を教えてやったものである。
 やがて赤穂藩は製塩に成功し、なおかつ高品質の塩を製造できたため、好評で関西圏に広く流通するようになった。藩の財政も大きく立て直されたのであった。

 ところが赤穂藩では他にまともな産業がなく、しかも塩が好評で売れ倒したため、調子に乗って塩の大増産を実施した。無計画な増産である。
 当時の商圏というのは、流通事情によりさほど広くはないものであった。関西圏へ出回った赤穂の塩は、あっという間にダブついて価格を落とし始める。需要と供給の当たり前の帰結である。

 ここで一度塩製造の足を止め、計画的な塩の製造という方向に転換していれば良かったものの、塩というおいしい商品にしがみつく浅野家は、商圏拡大を狙って江戸へ打って出ることにした。
 しかし江戸を中心とする関東圏には、すでに吉良の塩があった。現代とは逆に上方へ卑屈になっていた江戸に、関西の塩が分け入る隙はなかったのである。

 そこで浅野家では作戦を考える。将軍家に焼き塩を無償で献上することにしたのである。将軍が愛用の焼き塩となれば、江戸っ子に受けないはずがない。浅野家では「将軍愛用品」として大々的に宣伝を開始した。
 画期的な塩の消費手段が現れない限り、関東圏における塩の流通は限られたものであるのは当たり前。浅野の塩が売れれば、その分だけ吉良の塩が売れなくなるのは自明の理である。
 製塩法を教えてやったばかりに、恩を仇で返されることになった吉良家はいい迷惑であった。

 それだけではない。赤穂浅野家の当主、内匠頭長矩は、気が短いことで知られた若い藩主であった。その威勢の良さから、江戸市中本所における大名火消しを度々命ぜられるほどである。
 あの勢いだけの若造のおかげで、大火の際に屋敷を失ってしまったのは、そんなに昔の話ではない。もうちょっと気を使って防火してくれれば、古い屋敷を失わずに済んだのに。

 考えれば考えるほど、今回の饗応指南役は気が進まない。だから義央は、なるべく自宅にいる時には朝廷勅旨のことは考えないようにしていた。
 イライラしているのを家族に見せたくはなかったし、考えても考えなくてもその日は来る。内匠頭に対する先入観など持たず、平常心で臨もう。少なくても饗応とその準備の期間は、あいつといっしょに仕事をしなければならないのだから。

 (以下、つづく。かな?(^^; 故樋口清之教授の説をパクっております)

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コメント

面白いっす。

梅干先生の本は私も読みますたw

投稿: ガキ | 2010年12月14日 (火) 19:01

ここまで書けば先は想像つくべさ?って感じw

投稿: ビヨ | 2010年12月14日 (火) 20:26

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