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法事でした

 法事でやんす。私の社会復帰を知ることなく亡くなった、親父の7回忌。

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 私以外は還暦越えの人が集まり、実際はオフクロが仕切っているものの、私は名目上の施主。なのになんにもスケジュールを事前に知らされておらず、当日朝からパニくりまくり。あれがねえ、これがねえと、もうなにがなんだか。

 夜は旧仙北町にてお泊りとのことでしたので、法事後の時間つぶしを課題として私へ与えられたのですけれど、年寄り軍団を率いてどこへ行けばいいのか。
 とりあえず映画のスケジュールなども検討してはみたのですが、年寄り向け映画はどれも上映時間が合わず。十三人の刺客を私は見たかったのですが、大人\1700に懸念を表明され(^^;

 そこで思いついたのが、大曲にある農業科学館。ここは農業に関する資料だけではなく、なにかしら地方文化みたいなものの展示もあると噂を耳にしておりました。
 県の埋蔵文化センターよりもは一般ウケするのではないか。年寄りばかりならかなり暇つぶしができるのではないか。そんな感じで。

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 若い人や、地元の文化に興味がない人にとっては、おそらくなんにもおもしろくもないであろうという展示を、年寄りよりも熱心に見て回った私w

 「文化」という大袈裟な言葉を使わなかったとしても、今の自分が暮らす土地の年輪を知ることは、現在を理解する一助になると私は考えています。小さな田舎の歴史という流れの視点で見ることで、あらためて見えてくるものがあると思うんです。
 農機具ひとつにしても、先達のアナログ的工夫に感心してみたり、田舎だけで完結していた暮らしの姿に思いを馳せたりすることにより、現代の我々がよく見えてくるというか。

 結局、2時間しか時間がつぶせず、宿泊地近くの払田柵へ移動。ここは古代の大和政権が築造した大規模な農業指導兼用政庁でして、長年の地味な発掘作業によって近年全貌が明らかになりつつある遺跡です。
 防御的施設である秋田市の秋田柵は完全な山城形式の政庁ですが、広大な平野に築造された払田柵は、開拓を意識した施設であったことにほぼ間違いがないかと。

 稲作の普及と、地方住民の大和政権への組み込みですね。当時は現物納の税ですから、収税のためには稲作の普及が欠かせなかったわけです。
 ましてや当時の秋田は稲作に適した土地がたくさん存在し、おそらくは払田柵の広大な敷地では、北国に合う稲の改良が行われていたはずであり、安定した食料確保が可能な稲作の教育と指導を蝦夷達にしていたはずなのですよ。

 そんなことは現地の案内になにも書かれてはいませんが、出土する武具があまりにも非実用的な装飾品同然であることを考えれば、武力征服が目的ではなかったといえるのではありますまいか。
 中央集権体制を日本全国へ確立するため。その一言で日本史の授業では片付けられる当時の北方事業も、実際は税収確保と農業指導が現実的な目的だったのではないかなぁと、私は推測しているのでした。


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