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キスカ その3

 戦史系となると脊髄反射的に眉をひそめる人が世の中に多いのを承知で、たった1人の読者が喜んでくれるだけでも続けまーす。

 キスカ島撤退作戦、すなわち「ケ号作戦」であります。半年ほど前に実施されたガダルカナル島撤退作戦にもケ号作戦の名が使われており、関係者は再びケ号作戦の名を耳にして、またどこかから撤退するのだとピンときたらしいですよ。

 当時の日本軍は、一度うまくいくと何度も同じ手法を繰り返す癖があり、システマチックに敗因を分析する米軍相手に二度目はなく、常に対策されて失敗しています。

 例としてはガダルカナル島のヘンダーソン飛行場夜間艦砲射撃。大型艦船を運用するにはかなり狭い海域であるガダルカナル島沖に高速戦艦を投入し、戦艦の大口径砲で米軍の飛行場を砲撃したわけです。
 重火器に欠けるガダルカナルの日本陸軍を支援するためで、口径10cm以下の砲がせいぜいの陸上部隊と違い、高速戦艦は36cm砲を備えていますから、その威力は絶大なものがあったとされます。

 ところが陸軍側の戦力がいまひとつ足りず、自動火器で武装した米軍守備隊を攻略することができなかったんですね。40年前の日露戦争とたいして変わらない武装しか与えられていない日本陸軍は、ガッツで戦うしかありませんでした。
 ガダルカナルへ陸軍兵力を増強し、再度ヘンダーソン飛行場を奪取すべく、また高速戦艦をガダルカナル沖へ進出させた日本海軍でしたけど、今度は米海軍が新型戦艦を準備して待ち構えており、視界不良の混戦の中、不運にも日本側は戦艦比叡を失います。
 ここで躊躇したらいいのに、すぐまた日本側は戦艦を投入し、当然のように待ち構えていた米海軍の新型戦艦からボコられて、戦艦霧島を失ってしまいました。

 ケ号の「ケ」は乾坤一擲という説がありますが、個人的には「捲土重来」説をとりたいですね。撤退を「転進」という言葉で誤魔化す裏には、当然に捲土重来の意地があったと思うのですよ。

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 敵中に孤立してしまったキスカ島守備隊。それを救うのは木村昌福率いる水雷戦隊。味方をしてくれるのは深い霧のみ。
 濃霧に紛れてキスカ島へ高速で突入し、短時間で守備隊を収容して速やかに離脱。それが基本方針です。そのためにはどうしたらいいか。

 天気予報ですな。ペーリング海における霧の発生を正確に予測しなければなりません。そのために気象予報専門官の能力もさることながら、現地における気象観測も不可欠です。現地海域へ潜水艦を派遣して気象通報を行ってもらいます。

 レーダーを持たない日本海軍が霧の中で米艦隊に出会えば、レーダー射撃の技術を持つ米艦隊から一方的にタコ殴りにされるのは目に見えています。
 その対策で、当時ごく少数しかなかったレーダー装備艦である新鋭駆逐艦島風を配備してもらいます。幼稚な技術のレーダーでも、ないよりもは数段マシだからです。

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 島風は当時就役したばかりの最新鋭駆逐艦で、対水上艦艇用のレーダーと、相手のレーダー波を受ける逆探知レーダーを搭載していました。
 技術的には逆探知レーダーのほうが製造は楽で、未熟な電波技術しか持たなかった当時の日本としては精一杯の最新電波兵器でした。

 また、米艦隊や米索敵機から発見された際のことを考慮し、3本煙突の真ん中1本を白く塗って2本煙突に見せかけようとしたり、あるいは2本煙突駆逐艦に偽装煙突を設けて3本以上に見せるような偽装も実施されました。

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 つまり遠目には米海軍艦船に見せかけようとしたのですね。当時の米海軍に3本煙突の巡洋艦はなく、駆逐艦には4本煙突艦があったからです。

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 今風に言えば「光学偽装」。どうせ相手はレーダーを持っているから見つかったらおしまい、などと決め付けず、誤認させる努力を払ったということなのですね。

 味方にすべく濃霧はベーリング海名物ではあるわけなのですけど、実は夏のベーリング海はあまり霧が発生しません。8月以降は好天に恵まれることが多いんです。

 時系列的に並べれば。

5月12日 米軍がアッツ島に上陸
5月20日 大本営においてアリューシャン方面の戦線放棄を決定
5月30日 アッツ島守備隊が最後のバンザイ突撃で玉砕
6月上旬 潜水艦によるキスカ島からの撤兵作戦を2回にわたって実施

 という感じで、8月以降は霧が晴れてしまうので、日本艦隊の唯一のバリアが利用できないばかりか、おそらく8月になったら米軍は好天を利してキスカに上陸してくるであろうという推測もありました。
 濃霧が発生している7月末までに撤退作戦を遂行しなければならず、時間は日本側の味方になってはくれない状況です。自然環境と時間の制約が日本側に重くのしかかります。

 ここで米軍側の対応状況を記しておきましょう。

 キスカ島を孤立させるべく、周辺海域には戦艦ミシシッピー、アイダホを基幹とする有力な艦隊がありました。
 戦艦の大口径主砲弾の威力というのは、巡洋艦以下の艦艇で太刀打ちできるものではなく、唯一魚雷だけが対抗できる手段といえます。
 巡洋艦は軽防御であり、しかも装備している砲を撃つ前に相手の戦艦は遠距離から大口径砲で砲撃してくるため、近寄ることすらままなりません。

 そのため、戦艦の数で劣る日本海軍は魚雷の威力増大を狙い、世界に例のない酸素を燃焼空気として使用する魚雷を戦前に開発し、最高射程4万メートルというとんでもない魚雷を装備していました。戦艦の大口径主砲に軽艦艇で対抗するためです。
 しかし射程が長いということは照準が難しく、射程の長さよりも魚雷の高速度で戦果を上げた例が多く、やはりできるだけ接近して攻撃することが最良の手段なのでした。

 閑話休題。米軍は日本側より数段強力な艦隊で待ち構えており、キスカ島周辺には常に駆逐艦が遊弋し、潜水艦の潜入を警戒していました。
 霧の中ならレーダー射撃。霧が晴れたら近くのアムチトカから支援の航空機に攻撃させればいい話です。軽艦艇で突入を企てる日本艦隊にとっては、強力すぎる敵でした。

 また、霧が発生しなくなる8月中旬にはキスカ島上陸作戦が予定されており、多数の艦艇による護衛の下、物量にモノをいわせてアリューシャンから日本軍を駆逐する予定でもありました。はからずも日本側の推測は的中していたわけです。

 第5艦隊には重巡洋艦2隻があったものの、高速の軽艦艇群によってキスカへ突入する計画であったため、軽巡洋艦3隻以下、駆逐艦12隻と支援艦艇をもって遂行されることとなり、キスカ付近海域に霧の発生が予測された7月7日、艦隊は幌莚を出撃。
 霧の中の艦隊航行は危険であり、各艦は霧中用の曳航的を艦尾から流し、後続艦へ航路を知らせると共に、頻繁な発光信号による連絡、霧笛の使用などをし、粛々とキスカ南方海面を目指します。

 7月10日。アリューシャン列島南方海上に到達した木村艦隊でしたが、霧の発生がいまひとつ薄く、海面近くは霧が晴れて見通しが良くなってきました。
 敵艦隊との遭遇なら、視界がいい条件は日本艦隊に有利となりますが、アムチトカ島から飛ぶ哨戒機に発見されたらたまりません。空襲は避けたいところです。撤収艦隊の艦船が欠けてしまえば、それだけ収容できる人数が減るわけですから。

 突入予定日は7月12日。現地守備隊にも艦隊の出撃はとっくに連絡はしてあり、広い島の各地に配備されている守備隊員を艦隊が突入する七夕湾へ集めねばなりません。
 短時間で撤収を完了させるため、突入予定時刻には守備隊全員を七夕湾で待機させる必要があります。
 駆け足で片道2時間という場所にいる隊員もおりましたんで、予定時刻2時間前には持ち場を離れさせなければなりません。

 しかし突入予定日の予定時刻に艦隊が必ず来る保証はなにもなく、周囲の状況によって日が変わるかもしれません。そのため、何日にも渡って守備隊員は予定時刻に七夕湾へ集結する行動を繰り返していました。
 しかも終結している様子を米軍の偵察機に発見されたら、撤退の意図がバレバレになってしまいます。そうなれば撤収艦隊は待ち伏せに遭って袋叩きになることが簡単に予想できますんで、いちいち持ち場に戻らなければならなかったのでした。

 今日か明日か。守備隊員は艦隊の突入を待ちつつ、毎日七夕湾へ集結していました。もちろん艦隊側でも守備隊のそういう行動は知っています。短時間での撤収を可能にするため計画したのは艦隊側でしたから。

 短時間撤収にこだわり、半日はかかると予測された撤収を1時間以内に完了するため、守備隊の毎日の定時集合もそうでしたが、ほかにもいろいろと手は打っています。
 「天皇陛下からお預かりした兵器」であった菊の御紋章の入った小銃を、撤収時に湾内へ投棄することにしました。
 当時としては非常識極まりない処置であり、関係者は処罰されても当然ではあるものの、作戦遂行のためにしなければいけないこととして投棄を許可したのが、旧ほんたわで取り上げた樋口季一郎でした。陸軍北部軍管区の司令官だったんです。

 樋口季一郎については、日本陸軍の将官であった立場なのに、近年は評価が世界的に高まっており、いろいろなところで紹介されるようになったので、詳細は割愛します。

 ただし、木村提督と共通する部分を持った将官であり、人道的な配慮を常に持ち、目的遂行のためには割り切れる度胸をも併せ持った非官僚的な点で、当時の日本には稀有な人材であったと思います。
 海軍と陸軍の差はあれ、こうした人材がたまたま同じ戦域に司令官として同居していたというのは、キスカ島撤退作戦にプラスとなっていたことは間違いありません。

 さて、突入予定日を控えた木村艦隊は、霧が濃くなるのを待ちつつキスカ島南方海上で遊弋しつつ待機しています。

 多少の霧の薄さなど問題ではなく、大事なのは実行することだ。配下の艦長達はそういう意見が大勢を占めていたといわれています。
 まず時間的問題。モタモタしていたら霧が薄くなる北の短い夏が来てしまいます。また霧を待って遊弋している間に艦隊の燃料を消費していく問題。いずれは幌莚へ帰り着ける燃料の限界が来るわけですから。
 そしてアリューシャン方面に戦力を割いておけるほど戦局は優しいものではなかったこともありますね。第1水雷戦隊をマイナーな戦線に長々と拘置しておく余裕は日本にありませんでした。

 「断じて行えば鬼神もこれを避く」という言葉が当時の軍人に蔓延していたのもひとつの理由かと思います。
 積極的姿勢や意見が尊重されるのは、世の東西を問わず軍という組織の常でして、唯一の例外は自衛隊くらいのものでしょう。
 ましてや当時の大日本帝国は神国ですから。正義を遂行するのに神が邪魔するわけはありません。多少の霧の薄さなどたいした障害ではない。

 けれど木村司令官は艦隊旗艦の艦橋で静かにつぶやくわけです。「帰ろう。帰ればまた来れるよ。」と。艦隊はアリューシャン海域から一路幌莚へ向けて針路をとりました・・・・。

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コメント

マジですか!まさかの展開(いや、史実なんでしょうけれど、知らない人間にとってはまったく予想外の展開ですから)。
木村司令渋すぎる!

投稿: エンゾー | 2010年3月28日 (日) 12:43

史実は小説より奇なり、でやんすね。
映画化しても誰も史実だとは思わないでしょ。
武豊の人生を物語化してもフィクションとしか思えない
のといっしょで。

投稿: ビヨ | 2010年3月28日 (日) 20:20

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