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キスカ その2

 訂正① 突貫工事の損傷修理でミッドウェイ海戦に間に合った米空母は、ホーネットじゃなくてヨークタウン。訂正済み。

Yorktown

 それにしてもヨークタウンっていう空母は被害担当艦状態ですなぁ。珊瑚海海戦の被害からなんとか真珠湾へ帰投し、突貫工事で工員を乗せたままミッドウェイへ出撃したほどだったのに、またしても日本機動部隊の放った攻撃隊により損傷。
 それを応急修理したところへ、無傷の空母と思われてまた空襲で被爆。ヨロヨロと真珠湾へ脱出しようとしているところを、日本潜水艦によって雷撃。やがて沈没。
 けれどこれが物語るのはヨークタウンの不運ではなく、米艦船の卓越したダメージコントロール能力なのですよ。損傷してもすぐに復旧させてしまう能力が高いということです。

 訂正② 「瓦となって朽ちるより玉となって見事に砕けよう」という玉砕の意味を前回書きましたが、ほかに「瓦となって全からんより玉となって砕けよう」という表現もあるようです。前者はどっち道死ぬしかないパターン。後者は生存の道が残されているパターンですね。

 訂正③ 米軍のカエル飛び作戦についてですが、このアリューシャン列島における場合はちょっと違いますね。
 手薄なアッツを先に占領しておいてキスカを孤立させ、補給がなくて弱ったところを楽に上陸して占領する戦略、と考えたほうがよさそうです。

 さて、前回の続きです。

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 ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で山本五十六が戦死して1ヶ月。アッツ島守備隊は勇戦したものの玉砕。
 キスカ島へ補給を継続する手段は日本側にすでになく、戦艦2隻を基幹とする有力な米艦隊によって周辺海域は封鎖。霧にまぎれて海域を突破しようにも、米艦船にはあるレーダーが日本側になく、霧の中でいきなり砲撃されるのがオチ。
 霧が晴れればキスカ島へは米軍の空襲。晴れている日中はアダック島、そしてアムチトカ島に新設された基地から何度もしつこく爆撃機が飛んで来て、日が暮れるまで気が休まりません。

 キスカ島守備隊は玉砕を覚悟していました。船団によって撤収しようにも、低速の船団がウロウロしていたら封鎖艦隊に見つかるだけ。高速の軍艦を使用した場合でも、米艦隊のレーダーにつかまったらそれっきりです。
 一方、大本営ではアッツ島に米軍が上陸してから、もはや増援は不可能と判断。ようやくアリューシャン方面の戦線を放棄することが決定。キスカ島守備隊を撤退させることになったわけです。

 潜水艦による細々とした補給はたまに成功していたので、潜水艦での撤収も選択肢としては考えられたようですが、潜水艦は容積に余裕がなく、一度に撤収で きる人数はたかが知れています。
 仮に無理して20人ずつ撤収させても、300往復分の航海が必要で現実的ではありません。
 それでも初期には潜水艦15隻を投入して傷病兵800名余りを撤退させているのですから、潜水艦部隊がかなりがんばった結果でしたが、代償として3隻が犠牲となりまし た。
 自分たちの撤収のために、貴重な戦力が犠牲になっては申し訳ない。どうか救出などしないでほしい。守備隊側はそんな気持ちであったようです。

 ガダルカナル撤退作戦のように、敵の制空権、もしくは制海権のある海域では、高速軽快な小型艦艇を夜陰にまぎれて突入させ、夜明け前に敵機の空襲圏外へ一気に脱出させるのが理想的です。
 アリューシャン列島海域は霧が濃いため、この霧を味方にすることができれば、少なくても敵機による空襲は避けられます。当時は霧の中で攻撃をかけられる全天候型の機体がなかったためです。
 また、ごく少数ながら日本海軍艦艇の中にもレーダー、もしくは逆探知レーダーを実験的に搭載したものが(技術的に幼稚なシロモノであったとしても)ありましたので、レーダー射撃は無理でも敵艦隊を避ける目的には使える可能性がありました。

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 キスカ島撤退作戦の担当は、千島列島の幌莚島を根拠地とする北方担当の第5艦隊。主戦場となることが考えられない地味な海域を担当していたわけですんで、巡洋艦4隻を基幹とする警備艦隊規模の小さな戦力でした。
 これへ第1水雷戦隊を投入し、駆逐艦を増強して救出艦隊を編成することとし、1水戦の司令官には木村昌福少将が着任。木村司令官の下で作戦が計画されることになったのでした。

 木村昌福という人は、兵学校の成績は下から数えたほうが早く、海軍大学校へは行かない非エリートでした。兵学校の卒業成績が一生の出世を決め、将官になるためには大学校を出なければ無理とされていた当時でしたので、華やかな経歴とはまったく無縁。
 しかし船乗りとしての腕は若い頃から知られており、艦隊勤務のみの叩き上げとしては出世したといえると思います。
 豪放磊落の大人であり、常に落ち着いていて部下を叱りつけることもまったくせず、そのくせして指揮は常に適切的確だったため、部下からの信頼は絶大なものだったということです。

 また、木村提督はヒューマニズムな逸話の多い人でもあります。撃沈しようとしていた敵国商船から乗組員が脱出しようとしているのを見て銃撃を禁止し、全員が脱出したのを見届けてから撃沈した話が戦争初期にありました。
 米軍のスキップボンビングで有名な、陸軍兵力の護送作戦であるビスマルク海戦では、空襲を受けた際、敵機の銃撃によって木村は重傷を負い、司令官負傷の信号が上がったのを「陸軍の兵士が不安がるから」と命じて下ろさせた話が残されています。

 日本海軍最後の勝利と形容されることもあるミンドロ島殴り込み砲撃作戦の際には、往路で撃沈された部下駆逐艦をそのままにして進撃しましたが、帰路には自らの旗艦のみ沈没海域に停止させ、ただ1艦で救助作業を続けたこともありました。
 司令官のみ現場へ残しておくわけにもいかず、命令を無視して海域に残留した配下の艦もあったようですが。

 ミッドウェイ海戦で衝突事故を起こした第7戦隊4隻が、損傷艦を残して米軍の空襲圏外へ離脱しようとした際、そのうちの1艦の艦長であった木村は機関故障のウソの信号を上げさせて停止し、やがて引き返して損傷艦の乗組員を救助しに行ったエピソードが伝えられるものの、これはフィクションであろうとされています。
 ただし、「木村提督ならそこまでやったかもしれない」というリアリティがある話で、実際には証言している人物が1名しかいないマユツバ話なのに、今日まで事実であるかのように伝えられてきている理由なのだと思われます。

 しょせん殺し合いでしかない戦争という空間の中で、それでも人道に配慮した生き方を通し、作戦においては目的意識を維持し続け、慎重に計画、大胆に行動して目的を達成する司令官は、当時の日本海軍としては稀有な提督といえます。
 フネを失うことを恐れ(米軍より少ない戦力で戦っているという意識)腰砕けになる指揮官。逆にイケイケで猪突猛進タイプの指揮官。大事な場面で常に逃げ腰になる指揮官。
 そんな提督はたくさんいましたが、冷静慎重であり実施にあたって大胆に作戦を成功させるような提督は木村くらいのものでしょう。

 そんな木村昌福が指揮を執ることになったキスカ島撤退作戦。キスカ島守備隊の運命は、木村司令官の双肩にかかることになったのでした。

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コメント

読ませますなあ!よっ、ストーリーテーラー!

投稿: エンゾー | 2010年3月27日 (土) 22:51

いや、フィクションではなく史実ですから(^^;
 
こういったことが当時の日本にあったのだと、きっちり
書いておきたかったんです。いわゆる自虐史観とは
まったく違う歴史検証の立場で。

投稿: ビヨ | 2010年3月28日 (日) 11:55

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