前エントリーの補足 鐘馗について
零戦に並べていきなり「鐘馗」といってもわからない読者が多くて当たり前ですね。かなーり前に旧ほんたわに書いた気がして探したら、ありましたありました。
以下、再掲です。
発作的に航空機ネタで申し訳ない。掲載の画像は、もはや出所がわからない。いつもの無断転載ということになるのかな。キ-44の2型である。

キ-44なんて書くと、いかにも専門的でいやらしいな。旧日本陸軍の二式単座戦闘機『鐘馗』と書いたほうがわかりやすい。
どうだろう、このフォルム。エンジンがやたらでっかくて、主翼の面積がいかにも小さい。まるでスピードレーサーではないか。私は個人的にこのスタイルがたまらなく好きなんである。
けれど鐘馗はれっきとした戦闘機。スピードレーサーではない。では、なぜこのようなフォルムになったのか。ちゃんと理由がある。
鐘馗の基本計画は、インターセプター、つまり迎撃機としての性格を反映させたものであった。昭和13年下半期に、中島飛行機へ陸軍から研究指示が下ったという。大東亜戦争開戦の3年も前である。
とかく前近代的だと評されることの多い旧日本陸軍ながら、航空機に関してはかなり先進的な開発意識を持っており、昭和13年の時期に対爆撃機迎撃用の専門機を意識していたのは、かなり評価されるべきである。
迎撃機は敵機の侵入を撃退する機体であるから、第一に上昇力が要求される。そのためには大馬力エンジンの搭載が必須となる。鐘馗が頭でっかちなのは、当時は爆撃機用の大口径エンジンしか高馬力のエンジンがなかったからだ。
主翼は飛行機に揚力を与えるものではあるけれど、面積が大きすぎると空気抵抗になってしまう。かといって小さくすると運動性に劣る。けれど迎撃機は一直線に上昇して、敵機を叩ければいい。そのために思い切って主翼を小さくした。だから鐘馗は頭でっかちで小さな主翼なのだった。

当時も今も、日本人というのは十徳ナイフのような多用途性を求める傾向がある。後継機の開発が進まず、終戦まで零戦を使わざるをえなかった旧日本海軍は、零戦に長距離戦闘機と迎撃戦闘機の両面の性格を求めた。
当時の実用艦上戦闘機として、例を見ない長距離侵攻能力を達成するため、防御能力を削ってまで燃料を大量に搭載した。そのくせして対爆撃機用に大口径機関砲を搭載していた。
万能戦闘機を求めたのに、零戦はあまりにもギリギリの設計をしたため、改良の余地がまったくなくなったのは、軍用機ファンならみんな知ってることだ。
その点、旧日本陸軍機の場合、性格づけがはっきりしている。長距離侵攻能力が欲しいから一式戦。インターセプターが欲しいから二式単戦。水冷エンジンの高速機が欲しいから三式戦。連合軍の重戦闘機に対抗したいから四式戦。コンセプトが明確なんである。
航空機開発メーカーに対する軍側のゴリ押しも、海軍ほど陸軍はひどくなかったようである。本来ならば技術系の理解は軍艦という機械相手の海軍のほうがありそうなものだが、現実には下手に知恵がある分だけ、海軍のほうがメーカーにちょっかいを出したがったようだ。
話を鐘馗に戻す。わずか1,500馬力級の空冷エンジンを搭載していたわりに、鐘馗は防空戦に活躍した。コンセプトがしっかりしていたので、終戦まで使うことができたのであった。
B29の飛ぶ高さまで上昇するのが難儀だったのは、日本エンジン開発陣に共通の未熟さによるもので、鐘馗を設計した中島飛行機の罪ではなかろう。機体設計はしっかりとした設計思想に支えられていたのだ。
10月2日に書いた(2009年注・2004年の10月2日のこと)四式戦闘機「疾風」の現設計は、この二式単戦である。二式単戦の3型として企画された機体が、四式戦に発展した。側面図を見ると、中島飛行機流のフィニッシュが共通しているのだった。
ちなみに「鐘馗」とは、唐の玄宗皇帝が熱病にうなされていた時、夢の中に現れて悪鬼を退治したと伝えられる英雄である。そのため疫病を追い払う神として、日本でも古くから信仰を集めている。
敵の爆撃機を悪鬼になぞらえ、日本唯一のインターセプターへ「鐘馗」と名づけた当時の命名者は、なかなかのセンスだったと思う。
最後に、小池画伯による作品を無断転載しておく。(2004,12,6)

以上、再録。
小池画伯の絵は、頭でっかちのスピードレーサー然とした鐘馗のフォルムをあまり意識させない角度からの構図ですが、これから薄暮爆撃を敢行しようというB-29を望見しつつ、編隊を解いて突撃にかかる本土防空戦の図でやんす。
実際のところ、ターボチャージャー装備で悠々高度1万メートルを飛来するB-29に対し、日本側の迎撃機は機械式加給器(スーパーチャージャー)しか装備できず、空気が薄い高空でフラフラと飛びつつの迎撃でした。
B-29はターボのほかに与圧システムを機内に備えていました。現代の旅客機と同じく、機内に圧力をかけて気圧が下がらないようにしていたんですね。1万メートルの高空を飛んでいても乗員はTシャツだけで過ごせたそうです。日本の迎撃機パイロットはブ厚い防寒服にニクロム線を通してほのかに暖めて酸素マスク必携だったというのに。
撃墜したB-29の乗員がTシャツ姿だったのを見て、大本営報道部は「ヤツらは着る衣服の繊維をケチるくらい追い詰められている!」と宣伝したらしいですが、なんのことはない、科学技術力の差が乗員の軽装に現れていただけのこと。
当時の技術者は正確にそれを認知していたらしいんですが、なにしろ戦略物資はヤミに流したほうが利益がはるかに大きい当時の世情。希少金属が確保できないと開発が覚束ないターボチャージャーは、実用化できなくて当たり前ってな具合だったらしいですぜ。
当時のいろんな記録を読んでるとですね、今も昔も日本という国の仕組みはなにも変わってない気がするのですよ。政権が変わったからといって、そんな簡単に変わるものとは思えないのですね。
「戦後」は終わっていないし、明治以降どころか、江戸開府以来、日本人ってなにも変わっていないように思えるのですよ。あくまで私見ですが。
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コメント
あのころ足りなかったのはマグネシウムですな。
今ではカメラと言えばマグネシウムですが。
平和だ…。
投稿: エンゾー | 2009年9月 1日 (火) 22:39
三式戦のエンジン架はマグネシウムでしたな。
ニッケルとモリブデンが深刻だったらしいっすね。
ニッケル抜きのエンジンクランクがすぐダメになったそうで。
高品質エンジンオイルもすぐなくなっちゃって。
航空機関係アウトだったんだもんなぁ。
投稿: ビヨ | 2009年9月 2日 (水) 17:22