撮ることに関して大変弱気になってる私。その理由のうちのひとつに、仕事で撮らなければならない、いわゆるひとつの「工事写真」ってやつですら、どうにもヘタクソなのである。
おまけに今日などは「ビヨさんのカメラ選択ミスですネ」なんて言われちゃったりして。どうも我が社ではオリンパスのμ1030SW工事写真バージョンの評判がいいようなのである。
私はガッツリと構えられる大柄なリコー500Gをいつも持ち出すのだけども、確かに写りは物足りない。コントラストが不足し、ハイライト部が滲んだりブッ飛んだりしやすく、AFも少々頼りない感じはする。ダイナミックレンジが狭いのかもしんない。
今日撮ったカットでは、日陰を消そうとしてフラッシュを炊いたのに、なぜかハイライト部が流れて写っていた。高速シンクロの晴天下でなぜに流れて写るかな・・・・。
帰社してから撮ったカットを確認してガックリしたよ。あのカットは間違いなくボツだな。
もちろん簡単に撮り直しなどできない場面のカットであった。500Gを敬遠したがる同僚の気持ちがわかるというものだ・・・・。
かといってμ1030SWはコントラストがキツすぎる印象があって、屋外ではあまり使いたくない気持ちが私にはあったりするのだよ。
話は変わる。
きのう泣いたカラスが今日いきなり笑ってるんだが、地方都市においてはカメラ雑誌が今日発売なので、ちょっとだけ立ち読みしてニコンD700の記事にガツンとヤラれてしまった。
私は初見で「欲しい!」とカメラに対して感じることが少ない人間である。「使ってみたいなあ」と感じることはしょっちゅうながら、欲しいとまではなかなか考えない性格なのであった。その私がいきなり「D700欲しい!」だもの。デジタル機なのに珍しいことではある。
私の写真環境では、いずれデジタルと銀塩を対等に共用する時期が来るのは目に見えている(現在でも私は銀塩を意識の上では優先させているのだ)し、それに備えてデジタルに手を出して、ニコンE5000から連なるデジタル機遍歴になっている。
けれどデジタル機に求めているものはコスト低減であり、気楽に撮れることであって、バーンと本気で使う気持ちではない。
銀塩写真の撮影では当たり前の曖昧な部分がデジタルにはまったくなく、それが思考的趣味としての写真をスポイルしている気がするからだ。
何度か書いていることだが、銀塩写真においては適正露出ズバリというものを求めることに意味がない。存在しているのだけど、それにピタリ合わせることなんざ困難である。
なんぼAEや測光が進化しようが、しょせん被写体の平均反射率18%からは逃れられず、自動露出演算では適正露出の近似値を得られてもズバリというのは偶然以外に求めることは不可能である。
では手動で合わせる露出はどうなのかといえば、今度は絞りとシャッター速度を連続的に可変させることができないシステムが足を引っ張る。段階的にしかセットできないからだ。
絞りF9.1のシャッター速度123分の1なんてセットできないし、仮にセットできたとしても、露出計から得られた数値になんらかの「勘」を加味した上でのセットになるだろうから、現像するまで適正露出かどうかはわからない。
また、数値的に仮に適正露出だとしても、撮影者の意図通りなのかどうかは適正露出を求める行為とはまったく別の問題であり、撮影者の精神的な部分が占める割合が大きいのが銀塩写真だと私は思ってる。
片やデジタルはといえば、カメラ背面に液晶画面を備えていることから、とりあえずこれから撮影する場面、もしくは撮影直後の画面を目視で確認できる。
実際にカメラで記録される画像が、カメラ背面の液晶に正確に表示され(あの小さな液晶で正確な再現に意味があるかどうかは別にして)、パソコンの画面にも正確に表示され、プリントで出力しても変化がないと仮定するなら、撮影時点でもうその絵が意に沿うものかどうかはすぐわかる。曖昧さがまったくない。
露出の適正さという面では、無段階で連続的に露出をセットできても追い込めないのは銀塩もデジタルも同様ながら、少なくても撮ったカットを確認して対処できるのはデジタル機の特権である。
その場面を記録するという写真の一側面を追求するなら、デジタルカメラというのは銀塩よりも上かもしれない。
コントラストがキツくて醜くなったり、色再現がメチャクチャで正確な色ではなかったとしても、撮影時点で記録される絵がわかるというのは大変に便利なことである。さして重要ではないメモ用途には最高であろう。
もちろん、その記録を長期間に渡って保存するとなればデジタルはまだまだヤバい存在なのだけど、撮ってからせいぜい半年保管できればいいならなにも不安はない。
つまりデジタルカメラというのは「便利」なのである。私がデジタル機に求めるのも便利さだ。
デジタル機の持つ長所を積極的に自分へ受け入れた結果、気軽に何度でもレリーズできることと、くだらねーものでもとりあえず撮っておこうという気になれることがメモ機として大きな長所なのだ。
テキトーなライティングで身の回りのものを撮る気になれる精神的気楽さというのは、私の場合は銀塩に存在しない。パソコンでテキトーにいじって画像を作るにせよ、銀塩ではそんな真似をする気にはなれないのであるよ。
では便利ではない銀塩機の魅力というのはなにかといえば、先に述べた曖昧さが撮影者の精神的な思考の余地ということであるし、デジタル機では期待しても無理な「そこに存在する原版としての絶対的存在」である。
たかがフィルムスキャナでパソコンへ読み込んでみても、デジタル機と比較するのもおこがましいほどの情報量を銀塩リバーサルは持っている。
その緻密な描写には今でも感動できるほどだ。そこに被写体があるという確かな立体感は、現在でもデジタル機には再現できまい。
ということは、私が銀塩原版に感じている感動を得られるデジタル機があれば、もはや全面的にデジタルへ移行ということが、可能性としてはあるのだけどもネ(^^ゞ
話はD700へ戻る。EOS5Dとは登場時期の差、すなわち時間的に進歩した技術の差がある。私が「へえー」とEOS5Dのカタログを眺めて感心していたのは、前々回にオフ会で上京して2日目に御徒町を一人ほっつき歩いていた時なのだ。時間の経過がデジタル機器の激しい進化を加えている。
価格は若干下がって技術は数段上。それがデジタル機器の進化として当たり前なのだけども、どうもカメラの場合は(一眼レフに限り)フルサイズとAPS-Cサイズの間に大きなハードルが存在していると見え、どのメーカーも簡単にハードルを越えてはくれなかった。
いずれフルサイズでなければ話にならないはずなのに、どうも市場はAPS-Cサイズ対応レンズばかりになり、ひょっとしたらこのまんまになるのかとメーカーさんもユーザーも決めてかかってもしょうがない状況であった。私もそういう危惧を抱いていた。
けれど、記録という側面で止まっていたデジタル機を一歩前へ進めさせるなら、レンズ絞りをフルに使え、レンズのイメージサークルを存分に使えるフルサイズ機でなければ意味がないことも、これまた事実なのである。
フルサイズ機で使える一眼レフが手を出せる価格で登場したら、本気でデジタル機に手を出してもいいと、かねてから私は公言してきている。
EOS-KDXの価格が下落して、ついフラフラと私は手を出してしまったが、デジタル一眼レフというものを知るにはいい体験だったと思っている(←単なる負け惜しみ)。
だがやはり広角レンズをきっちりと使え、絞り全開の絵はきちんと被写界深度が浅くなければ、撮っていておもしろいはずがない。
とりあえず望遠ズームを与えていれば喜ぶニューファミリー層を誤魔化してりゃいいわけではないのである。
D700のキットレンズが24-120mmのVRなのは納得がいく。個人的には28-105mmでたくさんなのだが。望遠側で120mmのF5.6ってのはな。せめてF4.5は欲しい。
デジタルも銀塩も問わず、光学式の手ブレ補正レンズってのはAEとAFに続く「発明」だと私は考えている。
手ブレを誤魔化すなど許されないとお考えの撮影者もいらっしゃるだろうが、たいていの手ブレ補正レンズには機能をカットするスイッチがついている。
つまりブレブレで泣きたくない場面なら自動化に頼る選択肢が得られるだけのことであり、ブレをも加味したけりゃスイッチを切っちまえばいい。選択肢が増えるのは歓迎すべきことと思うのだが。
雑誌の記事に踊らされるつもりは毛頭ないが、フルサイズ機のハードルが価格的に下がってきていることは素直に歓迎すべきことと思う。
しかもあの絵はな・・・・。私が懐かしむ真夏のフジクロームってな感じで、ちょっと琴線に触れてしまった。
印刷媒体ってのは銀塩時代より数段再現性に信頼が置けなくなってるとはいえ、そういう絵が撮れる可能性のひとつなのだと私は理解している。
今でも銀塩を優先させているつもりの私は、いよいよ併用してもいいのかなという気持ちになってる。
もちろんD700を買うとか買わないというレベルでの思考ではない。単に「欲しい!」と感じた自分の気持ちに驚いているだけである。現実的に手を出すとそれなりの出費が伴う自覚もちゃんとあるので。
シグマDP-1でやたらと「買え買え」みたいなオーラをたくさん発した自分が、いざ現物が市場に出たらガッカリしちゃった無責任さを自覚してるんで、無意味にD700を褒め上げるような真似はせず、単に個人的感慨を書き残すこととしておきたい。
ただデジタルのフルサイズ機が真面目にメイン機になるかもしれない扉を開いたことだけは間違いなかろうとは思ってる。そういう感動がD700にはある。
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