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廃村 倉

 疲れてるとこでこれを飲みながら書いてるんで、いつバッタリと倒れて寝てしまうかわからん。それが小出しに更新してる主な理由だ。

 秋田市でもいよいよ雨が普通に降り始めたようで、外では雨音がする。当地の梅雨時としては、まだ本格的な梅雨にはいささか早い気はする。
 例年、7月20日頃に梅雨が明ける。海の日だ。かつて私は必ず仕事が入ってる日でもあり、祝日になったということを数年知らなかったほど、好天下で真っ赤に日焼けしながらカメラを振り回していたものである。
 しつこく梅雨が続いた場合は8月に食い込むことすらあり、8月頭から始まる竿灯祭りの初日の夕方まで豪雨ということも過去にはあった。不思議と祭りが始まる頃には止むんだがね。

 さて、今回最初に訪問したのは、旧東由利町の領域にある倉という廃村だ。旧東由利町の領域はとてつもなく広く、感覚的には旧雄物川町のあたりなのだが、地域は東由利なんである。
 位置的には、旧横荘線の線路を県道化したルート以北と、大森から西に抜ける県道以南になる。このあたりは低山ながら山そのものは深く、廃村が点在している。

 旧鳥海町方面から東由利にかけては、山の中に普通に集落が点在している印象がある。山が必要である生活をしていた名残であろうと思われ、廃村にはまだほど遠いレベルの元気が残ってるように見受けられる。
 だが県南内陸部の山沿いには山の中で暮らす必然性が薄かったと見え、廃村一歩前の集落が多数存在している。

 私見ながら歴史が影響してるものと思われ。県南海沿いの由利地区は、山の中に群雄割拠の時代が長かった。近代に至るまで続いていたんである。
 それに比べると農業主体の内陸部では新田開発の意味が山間部の開拓に濃かったと思われる。いわゆる「隠し田」だ。苛烈な年貢に対抗すべく、台帳外の田を山間部へ開発していったのではなかろうか。
 隠し田でなくても、子供が多かった当時の農村では、兄弟が多い子供が食うために山間部へ新しい田を開かなければならなかったのかもしれない。

 倉という廃村へ至るヒントは、バイブル(無明舎刊/『秋田・消えた村の記録』/佐藤晃之輔)にある。R107沿いから通れる道路があり、ふるさと林道と称して新たに舗装道を建設している、というくだりだ。
 私が所持してるバイブルの刊行は2001年の第二刊なので、記事の補校がないのなら刊行当初の1997年時点の情報といえる。11年前の話になるのだ。
 ならばそのいかがわしいネーミングの林道はとっくに開通していると考えるべきだし、R107から到達できるはずなのだ。

 いつものチープナビにおおよその位置をプロットしてあったため、入り口さえ間違わなければ廃村へ到達できる。
 チープナビを使用して数年、ナビの動作のクセは把握できてる。位置のプロットはかなり細かく指定してある。

 どうせ林道なんかナビでは表示しないから、国交省の資料や国土地理院の「ウオッちず」などのデータを参照して、できるだけ正確な位置をプロットするように心がけている。
 国土地理院の古いデータの1/25,000地図でラッキーなのは、現状では廃村になっていても、当時は人が住んでりゃちゃんと建造物のシルエットが書き込まれていることだ。これが廃村の位置特定に大きなヒントになる。

 また、長年の廃村探索で私の勘も働くようになってる。道の入り口を観察して「この奥には間違いなく人の暮らしの痕跡がある」と確信を持てるようになった。
 周辺地域の地勢と、目の前の入り口の整備具合、そして電力送電電柱の配列などが大きなヒントになる。

 昔はさぞや交通に難儀しただろうと思われる位置に廃村はあった。現在では山の中の無駄な舗装道路沿いにある廃屋といった風情だが、きっとこの道路が当時から整備されていたなら廃村にはなっていなかったのではないか、というのが昨今の道路整備絡みの空しさなんである。

 モータリゼーションという言葉すらすでに死語となってしまってるくらい、田舎ではクルマがなければ生活できないし、また田舎の社会はクルマがあって当たり前の前提でできあがってる。
 秋田県内の廃村はたいがい昭和46~48年に無人集落となっている。モータリゼーション一歩前のタイミングで県内は廃村を大量に発生させたのだ。
 あと数年粘れば、クルマは身近な移動手段になったことであろうし、地域振興という名で国からタレ流される税金で道路も整備されたはずなのだ。

 現代の感覚で廃村を訪問して、このくらいの立地なら暮らせたろうにと考えるのは、現在の道路事情と、1人に1台のクルマが当たり前の田舎の常識による。
 また、冬場の雪の量がハンパではない地域に廃村はあるものだ。昔なら冬篭り覚悟で秋に買い出しして食料の備蓄に励んだはずだし、子供は学校に行かなくて当たり前であったことだろう。

 現代なら公共の除雪作業がくまなく行われて当たり前ながら、昔は自分の必要とするルートは自分で切り開かなければならず、麓まで数キロあるルートの除雪は集落総出でやったものだという。
 それでも降る時は人力の除雪は間に合わず、除雪しに出た人々がその後の積雪によって帰れないということさえあったというのだから、現代の感覚で廃村を見てはならないのである。

 おっと。今回も長く書いちゃいそうだ。廃村の倉については次回に書こう。

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コメント

都会に住んでいると、廃村という名詞は思い出せませんが、私が田舎に行って気が付くのが廃屋です。
私が育った部落には、3軒。
ホタルのまつりをした部落にはやはり3軒、そしてこの先7.8年で絶える家が数10軒、寂しさを感じました。
これは自然の成り行きかも知れませんが、地方行政の方向性を今からでも示して欲しいと思いました。

私は横濱に来る前は千葉県長南町に20年住み、平成18年2月に横濱に住むようになりました。
長南町は内小友と似た地形で人々の性格が人なっこっく好きな町でした。
農村地帯で近くには低い山があり、キノコ.タケノコ.等適当に遊びながら採集が出来ました。
それに100坪ほどの畑があったので、年寄りの健康を兼ねて野菜を収穫していました。
横濱には建物だけで畑地は探してもありません。
でもヨコハマ市内には、市や区立の公園があり、週2回ほど公園巡りをして2.3時間かけて汗を流しています。
私は内小友村役場当時の職員経験者で、内小友の部落民の方々は屋号で話してくれれば、ほとんど分かります。
だが時代は過ぎ去り、ほとんど息子さん時代に替わり、そして孫の時代にすすんでいます。
が何時までも懐かしい内小友です。

       横濱  佐々木

投稿: 佐々木一男 | 2008年7月 5日 (土) 10:51

このところ東北各地では「限界集落」という言葉を普通に耳にするようになりました。
「限界」とは、集落の行事が遂行不可能になり、冠婚葬祭すら成り立ちにくくなっている廃村一歩前の集落という意味。

たいがいは高齢化がその理由になっていますが、もちろん都会へ集中する価値観の推移も原因のうちのひとつです。
若い人が田舎へ戻る傾向は全国的に少しずつ向上してきてはいるようですが、まだまだほんの一部。
団塊世代がどう動くかというのは地方自治体の関心事ではあるけれども、わざわざ不便な田舎に移るという感覚はおそらく団塊世代には少ないと思われ。

まさか集落が消えてしまうわけがないというレベルであっても、集落内に廃屋が増えている現状です。
そこで暮らす確固たる価値観を田舎の住民が持てないと、なんの説得力もない暮らしではないかと思います。

投稿: ビヨ | 2008年7月 6日 (日) 09:42

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